須田歯科医院

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お知らせ

2018.12.27
年末年始の休みは、12月29日(土)の午後から1月4日(金)までです。

診療時間

■平日(月・火・水・金)
午前/9:15〜12:30
午後/14:00〜18:30
■土曜日
午前/9:00〜13:00
午後/14:30〜17:00
■休診日
木曜日・祝祭日・日曜日
※祝祭日のある週の木曜日は診療しています。

アクセス

〒351-0034
埼玉県朝霞市西原1-6-5

院長略歴

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院長・須田勝行略歴
平成4年
日本大学歯学部卒業歯科医師免許取得
平成8年
日本大学大学院歯科臨床系修了 歯学博士取得
日本大学歯学部口腔外科学教室に助手として勤務
平成10年
須田歯科医院開業
所属・学会
日本口腔外科学会
日本ヘルスケア歯科研究会
日本歯科医師会会員

院長自分史

“1.朝霞の地に生まれて”

 私、須田勝行は昭和42年にこの朝霞の地で3人兄弟の末の子として生まれ育ちました。小さいころの記憶はすでに曖昧ですが一つだけ強烈に覚えていることがあります。幼稚園に入園する前のことなのでまだ3歳か4歳の頃です。わたしは自宅の前の道路で飛び出し、車に轢かれそうにそうになったのです。その車は私をよけて自宅の門柱に激突したのです。その時の激突した映像は今も私の脳裏に鮮明に焼きついています。ヒトは強烈な体験をすると脳に深く刻み込まれいつまでも忘れないものなのですね。この激突によって壊れた門柱に連なる壁の一部は私が小学生のころまで残されていました。それを見るにつけ「あ~、あの時本当に轢かれていたら僕はここにはいなかったのだなぁ」と思ったりもしました。あれは戒めのために残っていたのだろうかと今では思っています。その後、地元花の木幼稚園に入園、さらに朝霞第3小学校に入学しました。

“2.小学校時代”

 小学校時代は昔の子供たちがそうであったように、外で遊びまわる毎日でした。日曜日は毎週少年野球にせいを出し、平日は学校が終わればすぐ外に遊びに行くような毎日でした。3小の通学範囲である田島、上内間木から宮戸にはまだ沢山の自然が残っており、わが庭のように遊んでいたものです。浜崎に至っては他人の家の庭もみな当たり前のように遊び回ったものです。それが普通でありよき時代でありました。当時の遊びまわったこの経験は今ではこの地への愛着になっていきました。そして生まれ育ったこの地の人々の健康を守っていきたいという思いに変わってきたのです。小学校時代のある日、父が自宅の仕事場に卓球台を買ってきたのです。当時は家族で卓球に夢中になったものです。その当時は後の私に卓球というものが深く関わってくるとはおもいもしませんでしたが……。

“3.中学・高校時代”

 中学からは地元を離れて都内の中学校に進学しました。小学校の頃兄が定期券で電車通学をしていることに憧れをもってしました。自分も定期を持ち電車を使って通学ができるということに非常にワクワクした思い出があります。 中学に入ると一大イベントとしてはクラブは何に入るかということでした。小学校のころは少年野球に夢中になっていましたが、入部したのは卓球部でした。中学・高校での卓球部での想い出は多々有りますので(というよりも卓球の思い出しかありませんが…..) こちらで述べたいと思います。 高校入学後も卓球部に入部しましたが、当時の豊山高校卓球部は東京都でも新興勢力で私が入学する前の秋の新人戦でついに団体優勝し、翌年は初のインターハイ出場なるかという学校だったので練習はそれなりにハードでした。一年中卓球漬けの日々を送っていました。思えば高校時代のこのクラブ生活が無ければ本当に自分は弱かったのではないかと今でも思っています。苦しいながらも高校卓球部に3年間在籍することができ、また3年生の時は個人単複、団体でインターハイにも出場することができたことはその後の私の人生における自信にもつながっています。勉強の方を話しますと高校時代、クラブの同級生はみな文系で私だけただ一人理系でした。実家が建設会社であったため自分もいつかは建築士になるのかなと漠然とした考えがあったのでしょう。そのために理系を選択したのは自然成り行きでした。高校のクラブ活動は8月で俗に「引退」という時期が近づいてきます。その頃自分は医療に対して関心が高くなっていました。薬剤師、歯科医師、医師など自分の少ない知識でいろいろと考えたものでした。そのような時、小学校時代に地元の歯科医院で手術(今考えれば歯周外科手術だったのでしょう)を受け痛がって苦労していた母親の姿が思い浮かび、歯科医師になり親孝行できればと考えたのが歯科医師を目指した始まりだったと思います。 8月の部活の引退後、顧問の先生に歯学部に進学したいと話したところ、「し、し、歯学部~!?」と驚かれました。それもそうです、私たちの学年はインターハイに出場するというより上位に入ることを目標にしていたのでバリバリ体育会系です。野球で言えば甲子園でベスト8以上をめざしているような感じですね(春の全国大会ではベスト12でしたので)。そんな部員が歯学部に進学したいと言ったので驚かれたのも無理からぬことだったのです。

“4.大学時代”

 日本大学歯学部に入学後、やはりここでもクラブは卓球部に入部したのでした。どうやらこの頃の私からは卓球は切り離すことができなかったようです。この頃世間ではタモリさんの影響で「卓球は暗い」というイメージが全盛だった頃です。入部したのも私たった一人でした。 大学のクラブ生活でまず驚いたことは下級生はお金を一切出さなくていいことです。これはうれしかったです。どこへ食べに行っても「ごちそうさまでした」の一言ですむのは人一倍食事の量が多かった私にとっては天国のようでした。おまけに同級生が一人もいない私は本当に食べ放題という感じです。しかし、この一人だけというのは落とし穴で学年があがるごとに実はその負担は重くのしかかってきたのでしたね。結局卒業するまでには逆に多く払ったのではないでしょうか?人生そんなに甘くないですね。大学での学生生活は1,2年は進学過程でほとんど歯科には関係ない基礎学問ばかりです。歯学部に入ったからには早く専門の勉強がしたいなぁとよく思ったものです。上級生が咬合器をもってクラブに来る姿をみると「あぁ~かっこいいなぁ。早く俺もなんか作りたいなぁ」と思ったものです。 肝心のクラブの成績はというと、高校時代のレベルに比べると歯学部のレベルは若干低かったために私は入学してすぐにエース扱いでした。入学後すぐの関東歯科学生卓球大会ではいきなり個人戦で優勝しこれならば、全国歯科学生も楽勝か、というのりでしたがやはりそんなに甘くはありませんでした。あえなくベスト16で敗退。気を取り直して臨んだ翌年に無事優勝することができました。

 高校時代の卓球は勝つことだけが目的で厳しいものでしたが大学での卓球生活は私にとってはそれほど勝ち負けにこだわることも無く、実にのびのびと楽しむことができました。また一緒にクラブ生活を送った先輩後輩OBの先生は今でも私のよき話し相手であり相談できる方ばかりです。一つのことを続けることは私の人生に大きなものを与えてくれると大変感謝しています。3,4年に上がってくるとそれまでの楽な1,2年に比べて歯科の専門学を少しづつ勉強し始め、5,6年と臨床学科が主になってきました。その当時はいろいろと大変でしたが、今考えると学科の内容が全て治療学なのですね。悪くなった歯をいかに治すかという学問ばかりです。悪くならないようにするためにどのようにしていくかを学んだ記憶がありません。その当時はまったく疑問に思いませんでしたが、後の私にとっては疑問の一つです。

“5.大学院時代”

 院内実習を通して私が最も矯味を持ったのは口腔外科でした。とはいうものの外科の患者さんを多く担当していたわけではありませんでした。むしろ少なかったほうだと思います。ですから余計に関心が高かったのだと思います。同級生がOpe患者さんを担当しているなどと聞くと非常に矯味がわきました。そのような理由で大学を卒業後、口腔外科の大学院に進みました。また、その当時、口腔外科は大学でしか学ぶことができず他の科は一般開業医でも学ぶことができるので大学に残るのであれば口腔外科が一番良いと考えたからでした。口腔外科の主任教授は卓球部の顧問の先生だったので、ここでも卓球が深く関わっていますね。外科に残っても最初のうちは医局の先輩の先生方の介補です。最初に処置を担当できるようになるのは6月くらいからでした。1年目が最初に行うのは埋伏抜歯からになります。最初に担当した患者さんは今でも覚えていますが抜歯に2時間くらいかかりました。根気よく介補についていただいた先輩の先生や患者さんには感謝しております。 大学院生として入局しても1年生はほとんど研究はありませんので一般臨床研修がある他の医局員よりもむしろ口腔外科外来に長くいることができましたので少しでも多く初診を取るために朝は早く外来に行きました。外来には紹介状を持った患者さんが沢山いらっしゃいますが、あらかじめ決まっている担当医宛に来院する患者さんの他に担当医の決まっていない外科御中で来る患者さんもいます。この患者さんはどんどん自分が担当になって処置を行って良かったのです。また自分の上司の先生宛の紹介患者さんでも許可を得れば担当することができました。早く行って、早く処置を終わらせ、また初診患者さんをとる。1日に何人もこなすことが腕を磨くには一番良かったのです。やがて、2年、3年と上がるにつれ臨床から研究生活へと変わってくるのでそれまで少しでも症例をこなそうと努力しました。

 2年目からはOPe患者も担当するようになり、Ope室や病棟にも入るようになります。上司が顎変形症を数多く手がけていた関係で、骨きり術の患者さんは多く担当し、5-6年目にはまた何度か執刀し貴重な経験もさせてもらいしました。 大学院も2年になり研究として病理学教室に行くようになりました。当時大学院生は病理学教室で研究を行っていましたので、私も2年生から少しずつ病理に行き研究を行っていきました。病理学教室での生活は実験の基礎から学べ、さまざまな論文に接することができ、またこのときに学んだ分子生物学はいまでも論文などを読む際に役に立つことも多く、とても有意義な時間をすごしたと思っています。 大学院を無事卒業し、学位を取得した後は再び口腔外科医局員として講座に在籍していました。今まで28歳まで身分は学生でしたが晴れて一般の社会人になれたということです。 しかし、大学からでる給与は当時わずか1万ほどでした。夜間の診療バイトをしていましたがそれでも十分とは言えませんでした。そろそろ今後のことが考えなければという時期に来ていたのです。口腔外科ではまだ自分の上が詰まっていましたので有給の助手になることはまず無理でしたのでそろそろ大学を辞めようと考え始めたのでした。

“6.須田歯科医院開業”

 医局を退局したのち、平成10年に現在地である朝霞市で開業しました。生まれ育った朝霞の地で開業できることは大変幸せなことでもありましたが、悩みもありました。本当に自分が地域の住民の方々の健康に役立つことができるのか?自分の学んできたことことは本当に役に立つことができるのか?色々なことが頭の中をよぎり、不安も覚えました。しかし、そのような不安な考えも来院する患者さんを診ているうちに無くなっていったのです。 虫歯の痛みやさまざまな不具合を訴えて来院してくる患者さん。「○○さんにはこうやっていこう。△△さんにはこうしていこう」まずは目の前にいる患者さんを私は精一杯治療するだけでした。でもそのことを続けていくうちに開業前の不安もいつの間にか無くなっていたのです。虫歯で苦しんでいる患者さん、歯周病で苦しんでいる患者さん、私はこれらの人たちに自分のできる範囲で一生懸命治療を行う、ただそれだけを考えることにしました。

“7.治療から予防へ”

 開業してからは、ひたすら虫歯を削って詰める。詰める。これの繰り返しが続きました。 当然です歯医者なのですから。またその様にしか教育を受けていないのが実情です。大学でも治療の方法に教育の重点がおかれていますのでいかに直すかという授業ばかりで、一言で言えば削り方からかぶせ物の作り方などばかりです。虫歯を予防するためのどのようにしていったら良いのかという予防教育は全くと言っていいほどされていないのです。これが日本の歯科教育の現状だと思います。 そのため、削って詰めると言う治療に対して当初は疑問を抱くことはありませんでした。ただ開業から5年も過ぎたころから「何でこのような事を繰り返さなければいけないのだろうか?ただ目の前の虫歯の治療を行っても患者さんの健康を守ることはできるのだろうか?開業時に考えである生まれ育った地域住民の健康はこれで守っていけるのだろうか?」「直した歯が再び虫歯になり、挙句は抜歯に至ってしまう人がどうして多いのだろうか?」と日々疑問に感じることが多くなりました。虫歯の原因はわかっています。歯科の先進国では虫歯は必要な予防処置を行い、継続的なケアを行えば発症を抑えることが出来る病気と認識されています。それに比べて日本は何故???私の歯科医院では何故???と感じるようになってきたのです。このように日常の臨床に疑問を抱いていた頃に一つの転機が訪れました。地区の歯科医師会の手伝いで出席した講演会で日本ヘルスケア歯科研究会会長の講演を聞く機会があったのです。そのとき「健康を守り育てる歯科医療」を追求する研究会があることをはじめて知りました。早速入会し、参加したシンポジウムで初めて熊谷崇先生の講演を聞くことになったのです。会場は満員で熱気にあふれ、私は食い入るように話を聞きました。立ち見でしたがあっという間の2時間でした。それは、現在の日本の歯科医療の問題である「治療」中心の医療から、病気の原因を取り除く「予防」へと、歯科医療の方向を大きく転換するというもので、私の中には全く今までなかった考えで目の前に明るい展望が開かれた思いがしました。このようにして須田歯科医院では治療中心の診療室から予防中心の診療室への転換を図って言ったのです。まず診療に唾液検査を取り入れることから始めました。虫歯の予防のためにはまずその人の持っている虫歯のリスクを調べる必要があります。その問題点を明らかにしてこれをコントロールすることが非常に重要で歯科の先進国である北欧ではこのシステムが取り入れられています。しかし、いきなり予防といってもことはそんなに簡単にはいきませんでした。
「なんでこんな検査するの?」
「治療は終わったんだからもういいんじゃないの?」
こちらは患者さんが長く健康でいていただくためには必要だと思って行うことを全て患者さんから受け入れられるわけではありませんでした。定期管理の重要性をお話してもなかなか理解されない時期が続きました。

 そのような時期が2年ほど続いた後に熊谷先生主催で行われているにOralPhysicianセミナー参加する機会を得、山形県酒田市に半年かけて研修に参加しました。そこで予防を推進するために様々なことを学びました。 患者さんの生涯のお口の健康を守るためには虫歯と歯周病の原因を解決する診療システムを確立すること、また生涯にわたって継続的にメンテナンスを受けることができる診療環境を構築すること、具体的には診療システムの中心である歯科衛生士の能力が十分に発揮できるような環境を整えること、そしてこれらの事を十分に生かして患者さんと一緒に健康に取り組んでいくことが何よりも大事なことだと学びました。

“8.須田歯科医院Ver2”

 予防に対して理解をしていただける患者さんも少しずつ増えてきて予防診療に手ごたえを感じていましたが、診療室の改装を行い、更なる予防診療システムの出発を迎えることができました。須田歯科医院Ver2の始まりです。須田歯科医院の中心は院長である私ではありません。予防のためのプロフェッショナルである衛生士の存在なくしては理想とする予防診療は行えないのです。この改装を期に衛生士がその実力を発揮できるように各々がマイチェアを持ち自分専用の環境で予防診療を行えるようになったのです。また患者さんが安心して継続的にメンテナンスに通える快適な診療室にしました。

“9.最後に”

 予防のための取り組みはまだまだ途中段階であり、患者さんにも医院の理念、方針を理解されないことも多いですが、一人でも多くの人が予防中心で自らのお口の健康を守り育てることを理解していただけたらと思っています。そのために須田歯科医院を利用してもらいたいと思っています。私と当院の歯科衛生士が研修に行った山形県酒田市の日吉歯科診療所の熊谷崇院長は自身の講演で以下の様に述べています。
 「最後に、日本の国民にとっての最大の不幸は、これまで述べてきたような日本の歯科医療の現状や問題点をほとんどの国民が知らないことです。齲蝕や歯周病が予防でき、メインテナンスによって生涯自分の歯で食べることが可能であることを知らないままに、問題があるときだけ受診して、治療が済めば良くなったと思っている人がほとんどです。保険の安いコストが結果的に自身の歯の寿命を短くしている可能性も、歯科医師や医療機関によって大きな違いのあることすらも、認識していない人がたくさんいます。私はこうした現在の日本の歯科医療の現状を国民に知らせて、本当にこれでいいのかを問いたい気持ちでいっぱいです。この現状を知ってそれを肯定する人は決して多くないはずです。だれもがこうでありたいと望むような歯科医療に少しでも近づけるように、関係者の力をお借りできることを心から強く願っています。」
 今の私も全く同じ考えで、メンテナンス中心の歯科医療を理解していただき、いつまでも健康な食生活を続けられる患者さんを増やしていくことが現在の私たち須田歯科医院の役割だと思っています。

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